第3話 猫になった実感

信じられない。
どう考えても常識では説明できない。
それでも、目の前で起きていることは紛れもない“現実”だった。

自分の中で整理がつかないまま、俺はそっと茂みから抜け出した。
誰もいない細い路地。
夜明け前の薄い光が冷たく路面を照らしている。

「……もう一度、走ってみるか」

恐怖よりも、確かめたい気持ちが勝った。
ゆっくりと地面を蹴る。

次の瞬間──景色が伸びた。

「速い……!」

風が体に絡みつく。
地面が滑るように後ろへ流れていく。
まるで地面との摩擦が消えたみたいに、スムーズに加速する。

路地の角に段差がある。
普通の人間なら一度減速するところだが、体が自然に跳んだ。

ひょい。

それだけで段差を軽々と飛び越えた。
体は驚くほど軽く、着地の衝撃もほとんどない。

「これ……本当に俺か?」

さらに狭いフェンスの隙間に目をやる。
どう見ても人ひとり通れない。
だが、試しに肩をすぼめて進んでみる。

──スルッ。

何の抵抗もなく抜けられた。
体が細くしなるように動く。
まさに、猫の柔らかさそのものだった。

確信が、心の奥のほうから静かに湧き上がる。

「やっぱり……猫になったんだな、俺」

今朝まで普通のサラリーマンだった。
毎日同じ電車、同じデスクワーク。
変わらない日常が、この先も続いていくと思っていた。

なのに──今、俺は塀を飛び越え、狭い隙間を抜け、信じられないスピードで駆け回っている。

正気で考えれば絶望する状況なのかもしれない。
元の体に戻れる保証なんてない。

それでも。

胸の奥に小さな高揚感があった。
未知の世界にふれるような、言葉にできないワクワクが、確かにそこにあった。

第2話 逃げる影

なぜこんな状況になっているのか──その答えを掴めずにいると、ふいに足音が近づいてきた。
誰かがこちらへ向かってくる気配がする。

「まずい」

理由もなくそう思った。
次の瞬間、体が勝手に動いた。

俺は反射的に走り出していた。
どこへ行くという目的もない。ただその場から離れたい一心で、無我夢中に足を動かす。

──速い。

自分でも驚くほどのスピードだった。
いつもの自分の体では絶対に出せない速さ。
まるで風を切るように、地面を蹴った瞬間に視界がすっと伸びる。

脇道に入り、塀が行く手を塞ぐ。

普通なら止まるところだが、足が止まらない。
むしろ飛び越えようとする本能のような衝動が湧き上がる。

「……行ける?」

そう思った瞬間、体は軽々と塀を飛び越えていた。
着地も驚くほど滑らかで、まるで長年そうしてきたかのように体が馴染んでいた。

さらに深い茂みへと潜り込み、枝葉のしなる音に身を沈める。
心臓が速く鼓動しているが、息が切れない。
不思議と疲労感がない。

そこでようやく足を止め、頭の中を整理しようとした。

──何なんだ、俺は。

飛び越える。
走る。
隠れる。

すべてが“人間”の動きではなかった。
本能が命令しているような、もっと小さくて俊敏な生き物の動き。

「俺……猫か?」

ぽつりと漏れた言葉に、思わず自分で苦笑いしそうになるが、笑えなかった。

倒れている自分の体。
ここにいる俺。
異常な運動能力。
そして、助けようとした猫。

偶然なのか必然なのか。
答えはまだわからない。

けれど少なくとも、俺は“元の俺”ではない。
その現実だけは、茂みの中でひっそりと息を潜めながら、嫌でも理解し始めていた。

第1話 信号の向こう側

普通のサラリーマンとして、なんとなく過ごす毎日だった。
この日も変わらず駅へ向かう朝。人通りの多い歩道を歩き、いつもの信号で足を止める。青に変わるまでの短い静けさが、少しだけ好きだった。

ところがその瞬間、小さな影が視界を横切った。
猫だった。まだ幼いのか、体がやけに軽そうに見えた。

「危ない──」

考えるより先に体が動いていた。
気づけば道路に飛び出し、猫の体を抱き寄せるようにして庇っていた。

そして、強烈な衝撃。

頭の芯が揺れ、視界が白く弾け、次の瞬間には世界がひっくり返った。
地面に叩きつけられる直前、これまでの人生がフィルムのように走馬灯として流れた。
仕事のこと、親のこと、楽しかった日々、つまらない毎日、全部が一瞬で。

──ああ、終わったんだ。

それが最後の思考だった。

気がつくと、なぜか自分は立っていた。
道路脇、信号のポールのそば。
そして少し離れた道路の真ん中には、倒れている「俺」がいた。

「……だめだったか」

声に出したつもりはないが、確かにそう呟いた感覚があった。
胸の奥に不思議な静けさが広がる。
死ぬときは、こんなふうに自分を俯瞰で眺めることになるのか──そんなことを妙に冷静に考えていた。

周囲には人が集まり始めた。
驚いた顔、スマホを構える人、駆け寄る誰か。
騒ぎの中心はすべて“倒れている俺”だった。

救急車のサイレンが近づき、やがて赤い光が視界に差し込む。
隊員たちが慌ただしく処置を始め、担架に乗せて運んでいく。

だが、どれだけ時間が経っても、俺はその場に立ったままだった。
倒れた自分が救急車に乗せられ、扉が閉まるのを見送っても、まだ現場から離れられない。

まるで、置き去りにされた“影”のように。

そして思った。

──どうして俺は、ここに取り残されたままなんだ?

第15話 失ったものと、残っていたもの

塞ぎ込んだ生活は、いつまで続くのだろうと思っていた。
朝起きても布団から体が離れない。
食事の味もしない。
呼吸だけが、やけに重たかった。

そんなある日の午後、机の上で忘れかけていたスマホが震えた。
めったに鳴らない電話。画面に映った名前は、以前、道を譲った帰り道に少し会話をしただけの、あの誠実そうな人だった。あの頃、自分でも驚くほど優しくなれていた時期に出会った人だ。

「最近見かけないけど、大丈夫?」
その声がやけに暖かかった。

事情を少し話すと、しばし沈黙があり、その後返ってきた言葉は予想もしないものだった。

「もしよかったら、うちの会社で働かない?
 あなたなら、うちの人たちとうまくやれる気がして。」

胸の奥がじんと熱くなった。
自分のことを覚えてくれていたこと。
気にかけてくれたこと。
そして、こんな状況でも手を伸ばしてくれる人がいたこと。

好意に甘える形でその会社で働くことにした。
しかし久しぶりに社会に戻ってみると、体が全くついていかない。
以前、お金の余裕で好き勝手生きていた分、働くという当たり前の行為がこんなにもきついものだったのかと痛感した。

けれど、不思議と人間関係だけはうまくいった。
昔よりも誰かに優しく接することが自然にできるようになっていた。
一言の声掛け、ちょっとした気遣い。
お金があった時に生まれた“余裕”だけが、なぜか心に残っていた。

同僚は自分をよく助けてくれたし、上司も評価してくれた。
「あなたと仕事すると周りがやわらぐんだよ」
そう言われたとき、胸の奥で何かがまた温かく灯った。

気づけば、毎日が少しずつ前へ進んでいた。

そしてある夜、布団の中でふと考えた。
焼けて消えたあの大金。
あれがなければ今の自分はいなかったかもしれない。

使い切れないほどの金を失ったのは確かに痛かった。
でも——失ったからこそ、人の手の温かさに気づけた。
あの経験がなければ、こんなふうに誰かと笑い合うこともできなかった。

そう思えた瞬間、やっと心が軽くなった。

お金はなくなった。
でも人と生きる力だけは、ちゃんと残っていたのだ。

第14話 静かな底に沈む日々

焼け跡から目を背けて生きるようになってから、すでに数週間が経っていた。

時間だけは淡々と進んでいくのに、自分だけがそこに取り残されているようだった。朝起きても、体を起こす理由がない。外に出る気力も薄れ、ただ惰性だけで日々を漂っている。まるで世界の音が全部遠くに引っ込んでしまったみたいに、心の中が静まり返っていた。

何度も思った。

“なぜ隣の家なんか燃えたんだ”

“なぜ自分の家まで巻き込まれたんだ”

恨んだ。理不尽さに、怒りが湧いた。

何も悪いことをしていないのに、と。

けれど、その怒りも数日と持たなかった。

怒り続けるだけの力さえなくなっていたし、それに——どこかでうすうす気づいていた。

あのお金は、自分が汗をかいて稼いだものじゃない。

努力を重ねて積み上げたものでもない。

ただ、偶然手に入り、偶然生活を変え、そして偶然すべてを失っただけ。

その冷たい事実が、胸の奥に沈んでいくようだった。

あの金額があったとき、自分は優しくなれた。余裕ができて、大人になれた気がした。人に席を譲るのも、笑って受け流すのも簡単にできた。まるで人格まで豊かになったように勘違いできた。でも、それは「余裕が買ってくれた自分」だったのかもしれない。

今の自分には、その余裕がかけらもない。

だからこそ、残っているのは“本当の自分”だけ。

焦げた地面を思い出すたび、胸の奥に黒く重いものが沈む。

眠っても眠っても疲れが取れず、夢の中でも焼け跡をさまよっている自分がいる。

それでも、ひとつだけ小さな変化があった。

恨む気持ちが、少しずつ薄くなってきた。

恨んだところで、戻ってくるものは何もない。

怒り続けても、焼けた金が復活するわけじゃない。

自分の人生が止まったままじゃ、誰も助けてはくれない。

その現実を少しずつ、受け入れざるを得なくなってきた。

第13話 灰の中の現実

家に近づくにつれて、胸の奥で小さく震えるものがあった。タクシーの窓の向こう、いつも見慣れた街並みが妙に薄暗く、どこかよそよそしい。サイレンの名残のような焦げた匂いが、風に乗って鼻を突いた。その瞬間、背筋を氷の指でなぞられたような感覚が走った。

角を曲がる。

視界が、いっきに開けた。

そこにあるはずの自分の家——いや、“あった”はずの家は、黒い輪郭すら見せず、ただ灰の平野のように崩れ落ちていた。鉄骨だけがむき出しになり、ねじ曲がって空に向けて助けを求めているように立っている。足が止まり、そのまま前に踏み出すことができなくなった。

焼けた土の上を踏むと、バキッと何かが砕ける乾いた音がした。瓦礫なのか、かつて家具だった何かの残骸なのかも分からない。消防隊の残した黄色いテープが虚しく揺れ、まるで「もう戻る場所はない」と告げているようだった。

喉がひどく渇いて、呼吸をするたびに胸がざらついた。

預けておいたはずの現金——未来だと思っていた金額。

安心感そのものだった束。

人生を変えた、あの重み。

すべて、燃えた。

現実を理解しようとしても、脳が拒否する。視界の端がじわじわと暗くなり、耳鳴りが鼓動と一緒に膨らんでくる。手が震え、自分の体なのに思うように動かせない。あの紙の束が、炎に包まれて黒く巻き上がり、空に溶けていくイメージが繰り返し脳内に現れては消えた。

「なんで…なんでだよ…」

声にならない声が喉から漏れた。

隣の家の火事——ただそれだけの、不運と言われればそれまでの出来事。それに、すべてを奪われた。どこにも怒りをぶつける場所がない。自分の中に渦を巻く怒りと悲しみが混ざり合って、濁流のように胸の奥で暴れている。

焼け跡から漂う煤の匂いが、まだ火が残っているかのように鼻を刺した。立っているだけで、世界が揺れているようだった。

足元がふらつき、膝が崩れそうになる。

ここにあったもの。

ここで送っていたはずの未来。

そのすべてが、ひと晩で灰になった。

そしてようやく、自分は呟いた。

「……終わったんだな」