ヨーロッパの小さな町を歩いている時だった。
石畳を踏む足音と観光客のざわめきの中、スマホが震えた。
見知らぬ番号。普段なら無視するが、胸の奥に妙なざわつきが生まれ、通話ボタンを押した。
「○○さんのご自宅の隣で火災が発生しています。延焼の可能性があり——」
そこで言葉が途切れた。
頭が真っ白になる、という感覚を初めて理解した。
隣の家? 火事? 延焼?
心臓が嫌な音を立てる。
あの家には……まだ大量の現金が置いてある。
あのスーツケース。
鍵のかかったクローゼット。
誰にも話していない、“あの金庫代わりの部屋”。
「家は……俺の部屋は……」
震える声で尋ねると、電話の向こうで何かを確認する気配がした。
数秒の沈黙が、何分にも感じられた。
「申し訳ありません。火は○○さんの部屋の方にも広がっております」
その瞬間、胃がねじ切れたような痛みが走った。
視界が揺れ、街の景色が遠のいた。
息がきれず、膝に力が入らない。
——全部、燃える?
——本当に?
——あの“人生の再スタート”そのものが?
「すぐ帰ります」
そう絞り出すのが精一杯だった。
空港へ向かうタクシーの中、車窓の景色は何ひとつ頭に入らない。
頭の中に広がるのは、火に焼かれて黒く崩れ落ちるスーツケースの映像だけ。
もし助けられなかったら?
もし全て失っていたら?
あれだけの現金が、ただの灰になっていたら——。
飛行機のチケットを取りながら震える指を必死に押さえた。
周囲の旅行者たちの笑い声が耳に刺さる。
自分だけが別の世界に取り残されたような感覚だった。
帰国までの十数時間、眠れないどころか目を閉じることすら怖かった。
胸の奥で、希望と絶望が息苦しいほどせめぎ合う。
——どうか、残っていてくれ。
——せめて少しでも。
祈りのような願いを抱えたまま、俺を乗せた飛行機は夜の空を滑るように帰路へ向かっていた。
