寿司屋の暖簾をくぐると、カウンターの向こうから立ちのぼる酢飯と出汁の香りが、空腹を刺激した。
いつもなら値段を気にしてセットメニューばかり頼むが、今日は違う。
「ウニ、イクラ、エビをもう一度」
そう口にしながら、心の中で小さく笑った。
ひと口ごとに、口の中で広がる旨味が体に染み渡る。
なんて美味しいんだろう——これが“我慢しない味”なのかもしれない。
腹いっぱいになり、財布から万札を出して支払う。
あのスーツケースの中身が頭をよぎるが、不思議と罪悪感はなかった。
“自分のお金じゃない”という感覚が、次第に薄れていくのを感じた。
家に戻ると、急に家の中の汚れや古さが目についた。
中古で揃えた家電たちはどれも年季が入り、冷蔵庫は軋んだ音を立て、洗濯機は振動で床を鳴らす。
掃除機は吸わず、スマホは半日で電池が切れる。
テレビの小さな画面には、埃が積もっていた。
「もう、いいだろ」
心の声に背中を押されるように、スマホで次々と検索する。
代引きが使える店を探し、家電を総取っ替え。
冷蔵庫、洗濯機、テレビ、掃除機、スマホ。
さらに勢いで、棚、照明、ソファ、観葉植物まで買ってしまった。
数日後、部屋はまるでモデルルームのように変わっていた。
新品の光沢がまぶしく、部屋の空気までもが澄んで感じる。
「気持ちいい……」
自然と笑みがこぼれた。
確かに、何かが動き出していた。
ただそれが“人生の再スタート”なのか、“歯車の狂い”なのか——
この時の俺には、まだ判断できなかった。
