第15話 失ったものと、残っていたもの

塞ぎ込んだ生活は、いつまで続くのだろうと思っていた。
朝起きても布団から体が離れない。
食事の味もしない。
呼吸だけが、やけに重たかった。

そんなある日の午後、机の上で忘れかけていたスマホが震えた。
めったに鳴らない電話。画面に映った名前は、以前、道を譲った帰り道に少し会話をしただけの、あの誠実そうな人だった。あの頃、自分でも驚くほど優しくなれていた時期に出会った人だ。

「最近見かけないけど、大丈夫?」
その声がやけに暖かかった。

事情を少し話すと、しばし沈黙があり、その後返ってきた言葉は予想もしないものだった。

「もしよかったら、うちの会社で働かない?
 あなたなら、うちの人たちとうまくやれる気がして。」

胸の奥がじんと熱くなった。
自分のことを覚えてくれていたこと。
気にかけてくれたこと。
そして、こんな状況でも手を伸ばしてくれる人がいたこと。

好意に甘える形でその会社で働くことにした。
しかし久しぶりに社会に戻ってみると、体が全くついていかない。
以前、お金の余裕で好き勝手生きていた分、働くという当たり前の行為がこんなにもきついものだったのかと痛感した。

けれど、不思議と人間関係だけはうまくいった。
昔よりも誰かに優しく接することが自然にできるようになっていた。
一言の声掛け、ちょっとした気遣い。
お金があった時に生まれた“余裕”だけが、なぜか心に残っていた。

同僚は自分をよく助けてくれたし、上司も評価してくれた。
「あなたと仕事すると周りがやわらぐんだよ」
そう言われたとき、胸の奥で何かがまた温かく灯った。

気づけば、毎日が少しずつ前へ進んでいた。

そしてある夜、布団の中でふと考えた。
焼けて消えたあの大金。
あれがなければ今の自分はいなかったかもしれない。

使い切れないほどの金を失ったのは確かに痛かった。
でも——失ったからこそ、人の手の温かさに気づけた。
あの経験がなければ、こんなふうに誰かと笑い合うこともできなかった。

そう思えた瞬間、やっと心が軽くなった。

お金はなくなった。
でも人と生きる力だけは、ちゃんと残っていたのだ。

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