第12話 「燃える音」

ヨーロッパの小さな町を歩いている時だった。

石畳を踏む足音と観光客のざわめきの中、スマホが震えた。

見知らぬ番号。普段なら無視するが、胸の奥に妙なざわつきが生まれ、通話ボタンを押した。

「○○さんのご自宅の隣で火災が発生しています。延焼の可能性があり——」

そこで言葉が途切れた。

頭が真っ白になる、という感覚を初めて理解した。

隣の家? 火事? 延焼?

心臓が嫌な音を立てる。

あの家には……まだ大量の現金が置いてある。

あのスーツケース。

鍵のかかったクローゼット。

誰にも話していない、“あの金庫代わりの部屋”。

「家は……俺の部屋は……」

震える声で尋ねると、電話の向こうで何かを確認する気配がした。

数秒の沈黙が、何分にも感じられた。

「申し訳ありません。火は○○さんの部屋の方にも広がっております」

その瞬間、胃がねじ切れたような痛みが走った。

視界が揺れ、街の景色が遠のいた。

息がきれず、膝に力が入らない。

——全部、燃える?

——本当に?

——あの“人生の再スタート”そのものが?

「すぐ帰ります」

そう絞り出すのが精一杯だった。

空港へ向かうタクシーの中、車窓の景色は何ひとつ頭に入らない。

頭の中に広がるのは、火に焼かれて黒く崩れ落ちるスーツケースの映像だけ。

もし助けられなかったら?

もし全て失っていたら?

あれだけの現金が、ただの灰になっていたら——。

飛行機のチケットを取りながら震える指を必死に押さえた。

周囲の旅行者たちの笑い声が耳に刺さる。

自分だけが別の世界に取り残されたような感覚だった。

帰国までの十数時間、眠れないどころか目を閉じることすら怖かった。

胸の奥で、希望と絶望が息苦しいほどせめぎ合う。

——どうか、残っていてくれ。

——せめて少しでも。

祈りのような願いを抱えたまま、俺を乗せた飛行機は夜の空を滑るように帰路へ向かっていた。

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