第1話 信号の向こう側

普通のサラリーマンとして、なんとなく過ごす毎日だった。
この日も変わらず駅へ向かう朝。人通りの多い歩道を歩き、いつもの信号で足を止める。青に変わるまでの短い静けさが、少しだけ好きだった。

ところがその瞬間、小さな影が視界を横切った。
猫だった。まだ幼いのか、体がやけに軽そうに見えた。

「危ない──」

考えるより先に体が動いていた。
気づけば道路に飛び出し、猫の体を抱き寄せるようにして庇っていた。

そして、強烈な衝撃。

頭の芯が揺れ、視界が白く弾け、次の瞬間には世界がひっくり返った。
地面に叩きつけられる直前、これまでの人生がフィルムのように走馬灯として流れた。
仕事のこと、親のこと、楽しかった日々、つまらない毎日、全部が一瞬で。

──ああ、終わったんだ。

それが最後の思考だった。

気がつくと、なぜか自分は立っていた。
道路脇、信号のポールのそば。
そして少し離れた道路の真ん中には、倒れている「俺」がいた。

「……だめだったか」

声に出したつもりはないが、確かにそう呟いた感覚があった。
胸の奥に不思議な静けさが広がる。
死ぬときは、こんなふうに自分を俯瞰で眺めることになるのか──そんなことを妙に冷静に考えていた。

周囲には人が集まり始めた。
驚いた顔、スマホを構える人、駆け寄る誰か。
騒ぎの中心はすべて“倒れている俺”だった。

救急車のサイレンが近づき、やがて赤い光が視界に差し込む。
隊員たちが慌ただしく処置を始め、担架に乗せて運んでいく。

だが、どれだけ時間が経っても、俺はその場に立ったままだった。
倒れた自分が救急車に乗せられ、扉が閉まるのを見送っても、まだ現場から離れられない。

まるで、置き去りにされた“影”のように。

そして思った。

──どうして俺は、ここに取り残されたままなんだ?

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