普通のサラリーマンとして、なんとなく過ごす毎日だった。
この日も変わらず駅へ向かう朝。人通りの多い歩道を歩き、いつもの信号で足を止める。青に変わるまでの短い静けさが、少しだけ好きだった。
ところがその瞬間、小さな影が視界を横切った。
猫だった。まだ幼いのか、体がやけに軽そうに見えた。
「危ない──」
考えるより先に体が動いていた。
気づけば道路に飛び出し、猫の体を抱き寄せるようにして庇っていた。
そして、強烈な衝撃。
頭の芯が揺れ、視界が白く弾け、次の瞬間には世界がひっくり返った。
地面に叩きつけられる直前、これまでの人生がフィルムのように走馬灯として流れた。
仕事のこと、親のこと、楽しかった日々、つまらない毎日、全部が一瞬で。
──ああ、終わったんだ。
それが最後の思考だった。
気がつくと、なぜか自分は立っていた。
道路脇、信号のポールのそば。
そして少し離れた道路の真ん中には、倒れている「俺」がいた。
「……だめだったか」
声に出したつもりはないが、確かにそう呟いた感覚があった。
胸の奥に不思議な静けさが広がる。
死ぬときは、こんなふうに自分を俯瞰で眺めることになるのか──そんなことを妙に冷静に考えていた。
周囲には人が集まり始めた。
驚いた顔、スマホを構える人、駆け寄る誰か。
騒ぎの中心はすべて“倒れている俺”だった。
救急車のサイレンが近づき、やがて赤い光が視界に差し込む。
隊員たちが慌ただしく処置を始め、担架に乗せて運んでいく。
だが、どれだけ時間が経っても、俺はその場に立ったままだった。
倒れた自分が救急車に乗せられ、扉が閉まるのを見送っても、まだ現場から離れられない。
まるで、置き去りにされた“影”のように。
そして思った。
──どうして俺は、ここに取り残されたままなんだ?
